先日「安楽死が合法の国で起こっていること」児玉真美著を松下政経塾の社会保障研究会の皆さんと勉強会を行いました。私達が15年ほど前に行った共同研究が在宅医療をテーマにしていたご縁でお声がけいただきました。
当時も尊厳死という形で終末期医療の延命措置の在り方が国内でも議論されていました。その背景には、個人の尊厳や終末期の過ごし方は個人の自由な意志が尊重されるべきだという考え方がありますが、一方で医療費・社会保障費抑制の影もちらつきます。しかし終末期の医療費は3%に満たずそもそもボリュームが少ないことが指摘をされています。
回復が見込まれない病人に対する治療は効率的ではないという考え方もあるのでしょうが、そもそも人体は人知を越える存在であり医療は不確実性の高いものです。何か効率的ではない治療なのかは後からは分かっても、その時点では分からないのではないでしょうか。またこれらの議論は終末期だけでなく、障がい者や貧困など対象者が徐々に拡大していく「すべり坂」の構造が危惧をされています。
個人の意思が尊重されることは大切ですが、命の終末を迎えようとする人が、果たして冷静に判断をできる状態にあるのでしょうか。そもそも「命の選別」に神の身では無い人間が関わるべきなのか、周囲との調和を求められる日本社会において個人の最終意思の自由が本当に保障されるのか、など慎重に考えるべきことが多々あります。
そして諸外国を見ても最終的な判断は医師に委ねられるケースになり、医師は生かすことを使命としていることからすれば、なかなか受け入れられるものではないと意見交換会の中で現役医師からも指摘がありました。
「安楽死が合法の国で起こっていること 」児玉真美著を課題図書として読み込みました。
医療費削減と終末期医療のあり方は長らく議論されていることではあり、15年前の私たちの研究の中でも議論がありました。著書に指摘があるように「すべり坂」と言われる対象の拡大に歯止めが効かない恐れがあること、そもそも「命の選別」に神の身では無い人間が関わるべきなのか、周囲との調和を求められる日本社会において個人の最終意思の自由が本当に保障されるのか、など慎重に考えるべきことが多々あります。