「大好きな船橋を未来に向けて進化させよう」-船橋愛にあふれた47年間と船橋のこれから│つまがり俊明 長編インタビュー

「船橋一直線」。つまがり少年が生まれ育った船橋の景色。

よろしくお願いいたします。

はい。私は船橋市の二和で生まれました。今年48歳になります。年男なんですよ。
父は税務署の職員、母は市立保育園の保育士で共働きでしたので、おばあちゃんによく可愛がってもらいましたね。

いわゆる「鍵っ子」で、コンコンって近くに住んでるおばあちゃんに預かってもらえる時代だったんです。公務員の社宅でみんな仕事も一緒だし、そういう長屋みたいな温かい空間で育ったという記憶がありますね。

あと、僕たちにとって身近なのは新京成っていうエリアです。新興住宅地ですが、中学校に行くまで歩いて30分かかったり、隣に梨畑やニンジン畑があるような田舎でもあります。

父方の祖父母は、台湾に入植していたと聞いています。
当時、炭鉱は黒いダイヤって言われていて、炭鉱に行けば飯食える、豊かな暮らしができると。敗戦で引き上げても仕事と家がないので、福岡の炭鉱に行って働くことに決めたそうです。
そして、国のエネルギー政策が石炭から石油へと変わり、その流れで炭鉱が閉山することになり、東京に出てこざるを得なかったのだと思います。

父はそのような家庭で育ち、商業高校を卒業したあと、税務署に就職しました。

母方は元々島根県人です。母は隣の鎌ヶ谷市で保育士をしていて、障がい児の保育を20年くらいやってました。
父は55歳で早くに亡くなりました。
弟が当時まだ中学生だったのでちょっとかわいそうでした。
母はまだ健在で今年で75歳、今も船橋市内に住んでいます。

母の自転車ですね。自転車の前かごに乗っけてくれて、寒いなと思いながら保育園に行ったのを覚えています。迎えに来てくれるときの嬉しさとかもですね。

あります。公立の保育園です。
当時の保育園は、今と比べて共働きの世帯は少なかったので保育園に行っている子は少数派だったかもしれませんね。

幼稚園だと幼児教育がありますよね。幼稚園の子たちの方が、漢字が書けたりそろばんができたりとか。小学校1年生のときになったときに、そこだけはハンディを感じました。保育園ではひたすら遊んでるだけだったので。(笑)

3歳上に兄が1人、11歳下に弟が1人です。
みんな忙しいのですが、去年、公園にレジャーシート広げて、三人でお弁当とビールを持ち寄って話しました。

兄は昔から勉強ができて、公務員になりました。いい仕事をしたいと言っていて、一生懸命働いています。
弟は(船橋ではない)千葉県内の市役所です。
なので、市議会議員になった私も含めて、みんな公務員です。上も下もしっかりしているので、僕だけリスクを取って(選挙に出ても)いいのかなと。(笑)

物事をじっくり考えるタイプで学校の成績は良かったですね。多分、兄貴は勉強することも好きだったんじゃないかな。兄貴とは顔が全然違うし背も僕より低いので、二人並んでいると兄弟じゃなくて友達だと見られます。それぐらいタイプが違うのですが、僕としてはかえっていいんですよね。僕とは違う強みがあるので、立場は違いますが、兄貴を尊敬してますし。

「ヤンキー」とも仲が良い生徒会長。別け隔てなく接する、相手のいいところをみる。「自治」への憧れ。

そうですね、たしか小学一年生から二年生の頃に総選挙があったことを覚えています。学校の授業でも、三権分立を勉強しているときはすごい楽しかったですね。

小学校一年生から六年生までほとんど学級委員やってましたし、中学校では生徒会長にもなりました。
「みんなで話し合って決めよう」みたいなことを言ったりとか。

あとで恩師から聞いた話ですが、「津曲はヤンキーとも先生とも上手くやる」と評価してくれていたらしいです。

自分が優等生だと感じたことはなかったんです。兄貴が勉強できる人なので、兄貴とは違う分野で生きていきたいな、自分の長所を出していきたいなとは思ってました。

ヤンキーとも上手くやれたのは、小さい頃から色々な子と遊んでいたり、我が家では平等という概念が強くて、人と接するときに態度が変わるというのは潔くない、という感覚があったからですかね。とにかくみんなで一緒にやるのが好きだったんです。

あと、先生にも結構物申すほうでした。僕がみんなの代表として言うべきだよっていう感じでしたかね。

人から言われてあとで気がつくのですが、結構えこひいきしないタイプです。
公平に中立にっていうのをすごい大事にしているので、多分そういうところを評価してくれたのかなと思いますね。

インタビューは船橋駅北口にある「船橋北口みらい図書館」で行われた。

それは大切な概念だっていうのはありました。だから地方自治法とか、もう高校ぐらいで勉強するのかわかりませんが「団体自治と住民自治」(編集注:地方自治の本旨を構成するといわれている2つの要素。「団体自治」は、国からの独立した地方自治体が、自らの意思と責任で地域を運営する原則。「住民自治」は、地方自治体が住民の意思に沿って運営されることを意味する。)ですとか、すごいしっくりきましたね。

しっくりきていると思いますし、そう言われます(笑)。「うん、そうだよね」みたいな。

実は授業の好き嫌いが結構激しくて、数学と英語がすごく嫌いでした。
だから、中学生のときは成績のデコボコがすごかったですね。 好きなものしかやらないみたいな、そんな感じです。

別に家庭が貧乏だったわけではないのですが、塾とか習い事をすすめられない家だったので、高校まではお金はほとんどかかってなかったと思います。

出身中学の御滝中の前で

鎌ケ谷高校でラグビーに明け暮れた3年間。大学生になってからは議員インターンに。「本当は小学校の先生になりたかった」

高校ではラグビーがしたくて。その頃のラグビーって頭のいい学校が強かったじゃないですか。なんか文武両道すげえみたいな。鎌ヶ谷高校ってそんなにラグビーでは名前知られてないんですけど、とにかく自分の学力で行けて、ラグビーやってる学校を探したんです。

ラグビーは高校から始められるスポーツで、一からスタートできる。見ていて面白いなと思いましたし、体力もある方だったんで、周囲からは向いていると言われました。

家から自転車で行けて、県大会でベスト8ぐらいには入ってくる学校が鎌ヶ谷高校だったんです。
僕の三代前はベスト8ぐらいいってたのに僕の代はめっちゃ弱くて、これはキャプテン(つまがり)の責任ですよね(笑)。

もうちょっと後の代だとベスト4とか関東大会とか出てたんじゃないかな。
そのときぐらいに、女子で日本代表になった選手がいるんですよね。
僕たちはある意味「肥やし」にはなれたのかなって思います。

今でも春分の日にOB戦をやってみんなで集まったりして、ラグビー部の縁は続いていますね。

小学校の先生になりたかったんです。
当時、男性は保育士になれなかったのでそもそも選択肢としてなかった。
となると、あとは小学校の先生か中学校の先生。

当時って中学校がすごく部活が盛んで、部活も教えたいな、授業はついでとして好きな社会教えればいいやって考えたり。でも、小学生もかわいいだろうなとも考えたり。やっぱり子どもが好きってのが大きいですね。

そこで教育学部に行くか、法学部で政治系に行くか迷ったんです。
ただ、(当時の)担任の先生に「学校の先生がいいと思うんですよね」と言うと、「いや、つまがりくんの頃には少子化になってるから、学校の先生はあまり必要ないと思うよ」と言われちゃった。

やっぱり思春期になってくるとみんな難しくなってきて…。中学校や高校の友達が、 鬱になっちゃったりして。

家庭環境も色々あったんでしょうけど。そうすると家庭が荒れて、友達も不安定になっていく。例えば、学校来ないとか。
学校の先生として子どもたちを教えるのもいいけど、それよりも社会全体の環境を整えるのが大事かなって思ったんです。

そして、法学部にするか政治学部にするか迷ったんですけど兄貴にすすめられて法学部にしたんです。そして、失敗したと思った。みんな社会問題とか当たり前に話せるんだろうって思っていたんです。そしたら、みんな新聞すら読んでなくて、大学生ってこんなもんなんだって。

それじゃあ面白くないから、子供と遊ぶボランティアやってみたり、学校外で何かやるようになっていきました。

中学生のときに湾岸戦争がありました。高校を96年に卒業して、大学は2000年に卒業。バブルはだいぶ前ですね。
高校生のときは冷戦崩壊とか細川連立政権とかの話をしてたかもしれないです。

神戸の震災があったのは高校三年生のときでした。ボランティアに行きたかったなというのはすごいありましたね。

無所属だったからですね。
当時、中央大学とかが中心になって、少し年上の学生たちが議員インターンシップを日本でつくろうとしていたんです。当時は企業にもなかったんですよ。
それに対して、面白いなって言ってくれた議員が10人ぐらいいて、日本新党とかそっち系の人が多かったかな。今は参議院議員やられてる松沢成文さんとか、松下政経塾の人たちも多かったですね。

インターンやってみたいと思った理由は、将来的にも政治家になりたかったのもありますが、公務員志望だったからですね。
というのも、やっぱり政治の話がしたかったんです。三権分立じゃないですけど、公務員になっちゃうと政治的なことに非常に制限がかかるんですね。
だから、今のうちに政治家見ておくといいかなぐらいの感覚でした。
そしたら自分の人生が変わっちゃったみたいな感じ。98年、大学三年生でしたかね。

まず、中田さんって背がでかいんです。身長185センチぐらいあって、空手もやってる。威圧的ではないけど、怖かったですね(笑)。でも僕らには優しかったですよ。

インターンするなら自分の国会事務所と地元の川崎の事務所とどっちがいい、どちらでも好きな方を選んでいいよと。そして、秘書さんに地元事務所の方が面白いよって勧めてもらって。

最初、商店街に戸別訪問することになったんです。初めてのインターンだし、商店街でアンケートとるぐらいがいいかな、商人だから邪険にされないだろうと思ったんです。
そしたら、そのとき規制緩和で大型の店舗がどんどん出店する時期で。商店街が寂れていくときにアンケート取りに突っ込んでいったので、めちゃくちゃ政治に文句言われました。

そうかもしれないですね。足で稼いで、人の話を聞いてコミュニケーションをとっていく。やっぱり直接声を聞かないとね。聞いて感じないとなかなか出てこないもの、わからないことがいっぱいありますから。
アンケートを取るの、楽しいですよ。今日も駅に2時間立ってきました。もちろん反応もたくさんいただきました。

インターン先で出会った「村岡さん」。人生を大きく変えたベンチャー企業での経験。

そこで僕の人生が狂っちゃった(笑)。そう言えるのは……インターンを一緒にやってた人間があと2人いたんですね。1人は東大で後に朝日新聞に行く人で、やっぱり政治記者志望。
あともう1人が学生じゃないのにインターンに来ている、29から30歳の男性だったんです。

その人は、これから俺は政治をやろうと思ったんだけど政治の現場を見たら会社を立ち上げることにした、って言って。
そして、このインターン終わったら、俺の会社手伝わないかって誘われたんです。だから大学三年生、四年生の頃は社長と一緒にいることが多かったですね。

そうです。僕は公務員の家でしたけど、公務員の家だと公務員しかできないよねって思ってたんです。

でも村岡さんに、やっぱり一度民間と公務員両方経験してみた方が、きっと社会の役に立つ政治家になるよって言われて。社長と言っても社員が3、4人の会社でしたので、要するにカバン持ちみたいな形で、本当に雑巾掛けから夜の接待までご一緒させてもらいました。

それを学生時代含めて2年間ですね。そのあと公務員の経験もしようと思って、6年間勤めたって流れですね。
村岡さんってIT企業の社長なんです。IT企業っていうとかっこいいかもしれないですけど、もっと泥臭くて。情報収集みたいな感じでしたね。

そうですね。そのときにやっぱり船井総研の船井さんとか、あとは松下幸之助さんとか。経営者って面白いなと。ちょうどそのときに流行ってたんですけど、行政経営みたいな、自治体経営をやってみたいなって思ったんです。

でも新自由主義的な手法ではなくて、今まで生徒会とか小さい組織でやってきたので、もうちょっと幅の広いマネジメントをしてみたいというのはやっぱりありました。
それだったら、やっぱり民間の真似と言いますか、トップの経営者はどういう動きをするのかっていうのを体験してみよう。そういう感じでしたね。

やっぱり自分は政治行政が好きなんだなっていうのがよくわかったからです。
お客さんがIBMやマイクロソフト、あとはヒューレット・パッカードなどのマーケティング部門の人で、いろいろ一緒にやってましたけど、言葉が難しいじゃないですか。あと、社長のスタートアップをある程度お手伝いしたら、ちょっと行政の方行きたいなっていうのがありました。

村岡さんの会社に勤めていたときに、村岡さんからも「つまがりは政治に向いている」と言われて何度か話し合ったんです。 そしてもうそのときに、ゆくゆくは政治をやる、民間の後は公務員っていうのはもう決めていたと思いますね。

今だったら社会企業家を目指すとかそういうアプローチもあったんでしょうね。でも当時は、やっぱり社会の問題を解決するのが政治だっていう感覚が強かったかな。

あと、地球温暖化とか、京都議定書とかそういう時代でとっても環境問題がフォーカスされている時代だった。
その頃だったと思うんですが、やっぱり中田さんも「ゴミの中田」って言われるぐらい、ゴミの分別とかにものすごいやっていらしたんですよね。
今のために未来を食い潰すっていうのは駄目だよねって感覚はありました。やっぱり若かったですしね。 財政の問題でもそういう感覚はすごいありますよ。 

どんな政治家の秘書になろうかと村岡さんに相談しに行ったら、君は多分秘書は向かないから松下政経塾に行きなさいって言われて。
村岡さん自身も昔松下政経塾を受けて、途中で落ちていたので、僕に託したのかもしれないですね、夢をね。

はい。僕は職員さんたちの手練手管もある程度読めますんで、厄介な議員だと思われているらしいですよ。(笑)
要するに、それって本当はできるでしょうとか、この情報だったら出せるよねとかっていうのがわかっている、すくなくともそう思われているということだと思います。

どっちも楽しかったですね。今も楽しいし、行政の仕事も続けても楽しかったなとは思います。だからそう考えると、今度市長の仕事ができるってなったら楽しくてしょうがないだろうなっていう気がします。

議員には議員の、行政職員には行政職員のお互い強みがあるので。
やっぱり議員さんたちは一次情報を生活の中ですごい掴んでいる。これがすごい上手です。
行政はどうしても二次情報三次情報を基にしてるので、すぐに行動できない分、どうしても守りが得意なんですよね。

それでいいと思うんですけど、そこをうまく市長とか議員の政治的なもので柔らかくして行政をしてあげるっていうのが、役割分担なのかなっていうふうに思います。

松下政経塾は、僕らの頃は結構人気があった方だったかな。300人受けて、(合格者が)7人かな。みんながみんな優秀すぎて困りましたけど。
私が経験を積んだのは3年間です。大体野田さんの時代も二年時まで全寮制で、三年時はフィールドワークさせるんです。 

現地に、現場に行けって言われて。僕のときは3年間のうち1年間は塾に行きなさい、あとは自分のテーマに関連する場所や、自分の地域とか行っていいって言われました。

10時間に及ぶ「駅頭マラソン」演説会を終えて撤収作業をしている際のの一コマ。

思い出としては──同期に、ひたちなかで無所属の県議から勝ち上がって、今は市長やってる大谷明っていう人がいるんです。大谷は広告会社出身で。「100言って初めて1が伝わるから、嘘はつかないけどしっかりPRするのは大事だよ」ということをよく言われました。

塾の中で、こういう研修をしたい、こういうフィールドワークやりたいとかプレゼンをするんですが、行政的なプレゼンテーションを当時しちゃってたんですね。
先輩たちも温かく指導してくださるんですが、同期がやっぱり厳しく言ってくるし、鍛えられましたね。
そんなこと言ってくれる人だってもういなくなってるじゃないですか。あれは本当に貴重な経験だったと思います。

松下政経塾の先輩、野田佳彦(衆議院議員、元総理)、長浜ひろゆき(参議院議員)とともに活動してきた。

それはイメージしてました。もちろん、生まれ育った地元の、ここ船橋の市議です。ちょうど卒業したときが統一地方選挙だったので、やっぱりそこは考えてましたね。

2011年、市議選初挑戦初当選。

東日本大震災です。その前年の12月に卒塾フォーラムっていうのを市内の公民館で開いたんです。当時、卒塾に必修だったんですよ。
市外の人も含めて手当たり次第声かけて、250人ぐらい集まった。船橋の衣食住、それで船橋のことを語るみたいな。

自分はやっぱり野田さんが無所属で最初出られたように、自分の腕を試したいから無所属がいいと思ってました。あとやっぱり市長選挙の意識もちょっとあったんだと思います。自分の中で、やっぱり首長選挙って無所属◯◯推薦だよね、っていうのがありました。

当選したのは14年前の話ですけど、市のとある幹部の方に「待機児童問題なんてお金がかかるだけ。大した問題ではない」と面と向かって言われたことがありました。そのときは本当にびっくりしましたね。
自分が当選した年に下の娘も生まれて、妻も職場復帰ということでまさに「保活」の当事者だったのですが、当時の船橋市は全国ワーストクラスの待機児童という状況でした。

役所の方だけでなく、ベテラン議員さんの中にも「3才までお母さんが見てあげられる環境をつくることのほうが大事なんじゃないか」という方もいました。いつの時代??って感じでしたね。

これは自分が市議会議員、政治家としては特に気をつけてきたことなのですが、「子育て世代が大変なんだ」という世代間対立にはしないようにしてきました。
特定の集団の部分利益を訴えて支持を獲得していくというのは古い政治のあり方です。

右肩上がりの税収、成長の時代はそれでよかった面もありましたが、優先順位を決めて行く際には、広く全体の利益につながるというものでないと、市民の納得感は得られません。

「保育園を応援することで、看護師さん介護士さんが復職できますよ。医療介護の担い手不足も解消されて、ベテラン世代の皆さんも住み慣れた場所で安心して、介護や医療を受けられるんじゃないですか」
まわりくどいかもしれませんが、そういった伝え方に気を付けてきました。

船橋は交通の利便性が良いので、自然に人が集まることでまちが発展してきました。
そういった点では、人を育てるということについて、まちとして疎いところはあるのかもしれません。

私がSNSでも普通に子育ての様子をアップしていたこともあるのでしょうけれど、市議として当選して以降、保育園や学校などの事で悩む親御さん達の相談を受けることがとても多かったです。

保育園、学童に入れない、放課後ルーム(学童)のお弁当の問題、いじめの問題、不登校で居場所がない、虐待まがいのことが起きているのではないか、などなどです。
特にコロナ禍の混乱で緊急事態宣言、学校が休校となったときは、本当に多くの声をいただきました。

はい。当事者のリアルな状況を行政の皆さんにお伝えをし、同時にその人に対する個別の対応で止まるのではなく、それは氷山の一角で多くの方が困っているから、全体の仕組みを変えましょうと提案するようにしてきました。

それが特別支援学級の早期設置の取組み、放課後ルームの民間事業者さんのお弁当の導入、台風などの発災時の学校休校の情報伝達などの改善につながってきたと思います。
もちろんまだまだのところはありますけどね。市民の皆さんの声を力に、市政を、まちを一歩ずつ変えてこれたと思っています。

市議1期目の最終年に作成したビラ。「福祉・社会保障を地域から変えていこう」「介護と子供のことに力を」といった今も続く政治へのまなざしが当時の活動からもうかがえる。

たくさんありすぎて困りますね(笑)そうですね……。
子どもたちが保育園生の年齢くらいの時ですかね。近くの大きな公園のすべり台やジャングルジムで遊んでいたんですが、急に帰りたいと言い出しまして。

「どうして?」と聞くと「トイレ」だと。私が「公園の中にトイレがあるよ」と言うと、「このトイレは怖い」と言うんです。
確かにその公園のトイレは古くて暗い、いかにも「公園の公衆便所」という感じで、大人でも夜に使うのはためらうぐらいでした。せっかくあっても誰にも使ってもらえないのではだめですよね。
そこで、いろんな皆さんと一緒になって市に対して働きかけもして、きれいなトイレにしてもらいました。
子どもたちってトイレに敏感ですよね。うちの子どもたちもそうでしたが、今でも船橋のショッピングモールに行くと、子ども用のトイレがあって喜んで利用している子どもたちをよく見かけますよね。

はい。朝の保育園の送りは基本、自分の担当でした。妻は仕事のために朝から出勤しますので、私が子どもたちに朝ごはんを食べさせて、着替えをして、保育園のかばんを持って、息子と娘と3人で出発する。
時には2人を脇に抱えて保育園に飛び込むこともありました。同じご経験をされている方には共感してもらえると思いますが、お子さんを保育園につれていくのって、「おおごと」ですよね。(笑)

当たり前ですが子どもは時間通りには動いてはくれません。小さい頃は歯磨きも含めてこちらが手をかけるところがたくさんあります。
ご飯だって、特にうちの娘はすぐには食べてくれない。考えてみれば大人でもそうですよね。
子ども用のスプーンを持ちながらいらっとする自分を、まだ子どもの息子になだめられたこともあります。

子どもってすごいですよね。あなどれないですし、すでに一人の人間として人格がある。表現がまだつたないだけです。
一人っ子のご家庭も多いですが、兄弟姉妹がいるだけで子育てが孤独ではなくなると思います。親子2人だと煮詰まるものが中和されるというか。そういった点でも今は子育てが孤立しやすいのだと思います。 

5月17日に行われた「事務所開き」には子ども連れの人たちの姿も多くみられた

コロナ禍の休校は大変でしたね。娘もまだ低学年でしたし。息子がしっかりしていて機転が利くので、だいぶ助けてもらいました。

妻はそのころ、コロナ禍で大変な民間事業者さんの支援の仕事でいっぱいいっぱいでした。自分は自宅でも市民相談を受けられますから、むしろ自分が在宅ワークをしていました。
いやー、それでも大変でした(笑)
何がって、まず食事ですよね。朝ごはんの片付けして、スーパーに買い出しに行って、お昼作って、片付けして、晩ごはんつくって、片付けしたら、一日はあっという間です。

私が子どものときは親が共働きだったので、家事は主におばあちゃんがやっていましたが、あらためてすごいなと思いました。

その後、野菜を大量に買ってきていっぺんに切って小分けにして冷凍庫に入れておくとか、昼と夜で同じ食材を使うとか、良い意味で手の抜き方を覚えていきました。
ですが、一番困ったのは、子どもたちが思ったより食べなかったことです。
今思えば、それはそうですよね。自分が好きなものをつくってましたから。うちの子どもたちがきのこ、わかめ、生ネギが苦手とかそういった事も考えていませんでしたから、当然ですよね。

あるとき、学校給食で昔出ていて自分が好きだった、ポトフのような野菜スープやほうれん草の納豆和えを出したら、「給食みたいで美味しい」と息子が言ってくれました。
そこで知り合いの先生にコロナ休校前の1か月の献立表をもらって、それとにらめっこしながら、日々の家族の食事を用意しました。
子どもに合わせている給食のパワーってすごいですよね。「給食を食べに学校に行く!」っていう子がいるのも納得ですよね。

はい。今度はその大事な給食を、地元の食材を使ってもっと美味しく食べてもらうにはどうしたらいいかを考えるようになりました。
そして、給食費を無償化することで、すべてのご家庭に負担なく子どもたちに給食を食べさせてもらえるようにしていこうと取り組んでいます。
国も給食費無償化に向けて動いていますが、船橋で実現するためには、やはり市長の決断、リーダーシップが大事になってきます。

市長になる、そしてその先の夢。―市長を3期12年やったら引退して社会福祉士になる。

いろんな市長さんの話を聞いていると、本当に真剣に死ぬ気でやったら12年しかできないだろうなと思います。きちっと3期12年で仕上げて、後継を育てる、これが大事だと思うんですよね。その次の人をちゃんと育てる、育ててその人に託す。 

そうすると3期12年やっても僕はまだ59歳ぐらいなんで、まだまだやれることがいっぱいある。妻も一緒に旅行とか行ってくれないかもしれないけど、家族の時間も作りたい。

あとはもし今年選挙やらなかったら、社会福祉士の資格を取ろうと思っていたんですね。

児童相談所なんかも人が不足してますし、あるいは学校でもスクールソーシャルワーカーという形で子どもたちのこと、保護者さんのお困りごとを、行政とか地域の支援に繋げていくっていうのをやってみたいなと思います。59歳ぐらいだったら、まだ使ってくれんじゃないかなと。

つまがりのポスターや市政レポートに登場する船橋と子どもたちの絵は自慢の娘さんが描いてくれたもの

改めて考えると、母の影響は強いんでしょうね。

母は活字中毒で本を読むのが好きなんですけど、母の書棚にある児童書をいっぱい読んでくれたんです。
子どもは環境が選べないので、これは社会とかみんなが支えないと思っています。 

いいですよ。……と僕は思ってますけど(笑)。
息子は高一で娘が中二。 一般的には難しい年頃なんでしょうけど、家庭内でもよく喋ってくれますね。
今年は行けなかったんですけど、冬はいつも家族4人と、あと義理の親父さんらと一緒にスキー場に行って、そこで正月を迎えるっていうのが定番です。

ただ、子どもは政治はやらないと言ってますね(笑)。

(政治家になるとその人の)妻が大変そうだからじゃないですか。
ほら、電柱にも頭下げろとまではいわないですが、常に街頭に立ってね。

真冬でも朝5時過ぎから駅頭に立ってビラ配りをする。日課の「朝駅頭」は市議14年で累計1483回行ってきた。(2025年5月19日時点)

それに政治家と言っても契約社員ですからどうしても生活への不安はついてきます。
僕は世襲が駄目だとは思わないですけど、それはやはり、育てる努力をすればいいということなのだと思います。 
別に自分の子どもじゃなくても、志を継いでくれる人をちゃんと自分で見つけて育てればいいだけなんですよね。ボランティアさん含めてね。
やっぱり障がい者政策とかを一生懸命やってくれる人、地域に根付いて活動してくれる人をしっかり見つけて育てていかないとなと思っています。

俊明って名前の、「俊」っていうのは「優れて」(特に)っていう意味らしいんですけど、「優れて明るい」といいますか、何か小さい頃から「自分はそういう生き物だ」って思ってきたという感じですね。(笑)

コーヒーが大好きなので、1日1杯以上飲みますかね。3杯ぐらいかな。カフェイン中毒なんでしょうね。

つまがり俊明 / TSUMAGARI,Toshiaki
1977年6月28日生まれ。47歳。
船橋市立三咲小学校、船橋市立御滝中学校、千葉県立鎌ヶ谷高校、明治大学法学部卒業。
民間ベンチャーを経て、旧自治省(2種採用)、消防庁や税財政部局や神奈川県庁に勤務。
この間に働きながら明治大学大学院に通学し、公共政策修士号を取得(自費夜学)。
2008年(平成20年)に公務員を退職し松下政経塾(29期生)。
2011年(平成23年)船橋市議会議員選挙初当選、その後4期連続当選。
2023年(令和5年)の選挙では5,879票を得てトップ当選。
市議として、障がい者施策(雇用・特別支援教育・福祉)に特に注力。
趣味はラグビーと剣道(二段)。
家族は神奈川県庁時代に出会った妻と、長男(中学生)、長女(中学生)